エルヴィス・プレスリーについて-1
- 2006/09/27(水) 09:00:22
エルヴィス・プレスリー
エルヴィス・アーロン・プレスリー (Elvis Aron Presley, 1935年1月8日 - 1977年8月16日)は、アメリカのロックンロールミュージシャン。血液型はO型。ミドルネームはAaronと綴られることもあるが、サイン、公文書共にAronである。『キング・オブ・ロックンロール』(または単に『キング』)として知られる。
概 要
チャック・ベリー、リトル・リチャードらと共にロックンロールを世界に広めた。その影響を受けたビートルズ、レッド・ツェッペリンらスーパースターは多い。黒人のブルースと白人のカントリーを融合させたロックを広め人種の壁を打ち壊した人物として知られ、世界の大衆音楽のみならず人類の思想にまで多大な影響を及ぼした。
彼は最初、「The Hillbilly Cat(田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始め、その後すぐに歌いながらヒップを揺らすその歌唱スタイルから「Elvis the Pelvis(骨盤のエルヴィス)」の愛称で呼ばれる。品位を欠くミュージシャンとして非難されたことでも知られる。アメリカのバラエティー番組『エド・サリバン・ショー』の出演の際には、視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にエルヴィスの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられている。また、フロリダの演奏では体を動かすなとPTAだかYMCAだかに言われ、小指を動かして歌った。
彼の持つ記録は様々あり、例えば、最も成功したソロ・アーティスト、最も長時間ナンバー1にエントリーさせたアーティスト(80週)、最多ヒットシングル記録(151回)、一日に売れたレコード枚数の最高(死の翌日)、等がギネスによって認定されている。CD/レコードの総売上は正確な数を把握できていないが、1977年に「6億枚以上」、死後数ヶ月間だけで「2億枚」、1985年に「10億枚以上」という推定数字が発表されている。「売上データ無し」がRCA/BMGの公式発表であるが、現在は推定10数億-30億枚と言われ、世界NO.1といわれている。
なお、彼は2005年10月27日発表の米経済誌フォーブスによると、2004年10月から1年間の印税等の収入は4500万ドル(約51億9000万円)に上っている。故人長者番付である同調査では現在5年連続でトップを維持しており、今なお伝説的な存在である事を証明している。
エルヴィス・プレスリーについて-2
- 2006/09/27(水) 12:25:34
生い立ち
エルヴィスはミシシッピ州トゥーペロの小さな家で、ヴァーノン・エルヴィス・プレスリーおよびグラディス・ラヴ・スミス・プレスリー夫妻の間に1935年1月8日午前4時35分に生まれた。
彼はトゥーペロで幼年期を過ごし、13の時に一家はテネシー州メンフィスに転居した。彼には双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している。一家は1949年にロウダーデール・コート公営住宅に転居するが、そこはエルヴィスがビール・ストリート、エリス・オーディトリウム、サン・スタジオといったメンフィス・ミュージックや文化的な影響を受けた施設から1マイル程度の距離であった。
エルヴィスは11歳からギターを始め、ロウダーデール・コートの地下洗濯部屋で練習をした。彼はそこに住むミュージシャン達と演奏を行った。エルヴィスは高校卒業後に精密金型会社で働き、次にクラウン・エレクトリック社のトラック運転手となる。
スコットランド人作家アラン・モリソンはエルヴィスがスコットランド系であったと主張する。彼はその著書でエルヴィスの先祖が1700年代にアバディーンシャーのロンメイで暮らしていたことを発見したとする。また、記録によるとアンドリュー・プレスリーが1713年にロンメイでエルスペス・レッグと結婚したとしている。彼らの息子アンドリューが1745年にイギリスの植民地に移住したとのことである。
1950年代のアメリカでは音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っており、当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲を白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載され、またラジオなどで流れる傾向にあった。
例え同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが一般的だった。エルヴィスは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘された。
エルヴィス・プレスリーについて-3
- 2006/09/27(水) 18:48:01
サン・レコード
1953年の夏にエルヴィスはサン・スタジオで最初の両面デモ・アセテート盤を録音するため4ドルを支払った。収録曲は当時のポピュラーなバラード"My Happiness"と"That's When Your Heartaches Begin,"であった。エルヴィスは母親への誕生日プレゼントとしてアセテート盤を録音したと語ったが、グラディス・プレスリーの誕生日は4月であり、録音は7月に行われたためこれは事実ではないと考えられる。
サン・レコードの創業者サム・フィリップスとアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞きエルヴィスの才能を感じ、1954年6月に行方不明の歌手の代理としてエルヴィスを呼んだ。セッションは実り多いものであったかは分からなかったが、サムは地元のミュージシャン、スコッティ・ムーア、ビル・ブラックと共にエルヴィスを売り出すこととした。
1954年7月5日のリハーサル休憩中にエルヴィスは"That's All Right, Mama"をいじくり始め、サムはエルヴィスが適所を得たかもしれないと考えて録音ボタンを押した。即興での演奏でドラムスが居なかったため、ベースをかき鳴らしている。B面に"Blue Moon Of Kentucky"が収録されたシングルは、WHBQラジオが放送した二日後に、メンフィスでのローカル・ヒットとなった。また、公演旅行は彼の評判をテネシー中に広げることとなった。
サンとの契約下でエルヴィスは5枚のシングルをリリースした。
That's All Right / Blue Moon Of Kentucky - Sun 209, 1954年7月19日
Good Rockin' Tonight / I Don't Care if the Sun Don't Shine - Sun 210, 1954年9月25日
Milkcow Blues Boogie / You're A Heartbreaker - Sun 215, 1954年12月28日
Baby Let's Play House / I'm Left, You're Right, She's Gone - Sun 217, 1955年4月10日
Mystery Train / I Forgot To Remember To Forget - Sun 223, 1955年8月6日
これらの多くはリズム・アンド・ブルースまたはカントリー・アンド・ウェスタンのヒット曲のエネルギッシュなカバーであった。レーベルには「エルヴィス・プレスリー、スコッティー・アンド・ビル」とクレジットされた。10曲の中で最短の曲は1.55"、最長のもので2.38"である。
1955年8月18日にエルヴィスの両親はトム・パーカー大佐との契約書に署名し、サン・スタジオとの関係は終了した。
エルヴィス・プレスリーについて-4
- 2006/09/28(木) 01:09:12
RCA
エルヴィスは1955年11月21日にRCAレコードと契約した。1956年1月28日に「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショウ」にてTVに初出演し、黒人のR&Bを歌う。そこで彼は白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対してPTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられた。しかし、その激しい非難にもかかわらず、それを見た若者たちは、これこそが自分達のための音楽なのであると感じエルヴィスのファンになっていった。
1956年1月27日に第6弾シングル「Heartbreak Hotel / I Was the One」がリリースされた。これは1956年4月にチャートの一位に達した。(Heartbeark Hotelはその後数多く登場したミュージシャンに多大な影響を与えた。)エルヴィスが1977年に死去するまでの21年間に、146曲が100位以内に、112曲が40位以内に、72曲が20位以内に、40曲が10位以内にチャートインした。1962年4月21日から2週連続でNo.1を獲得した「グッド・ラック・チャーム」を最後にエルヴィスはNo.1から遠ざかった。しかし、1969年11月1日、「サスピシャス・マインド」がNo.1を獲得し、「エルヴィスの復活」と言われた。1972年10月28日には「バーニング・ラヴ」が2位まで上り詰めたがチャック・ベリーの「マイ・ディンガリング」(1972年10月21日から二週連続No.1)に阻止され70年代でエルヴィスはNo.1を取る事が出来ず、「サスピシャス・マインド」が最後のNo.1となった(Billboard誌に準拠)。
「イン・ザ・ゲットー」、「バーニング・ラヴ」はCashBox, Record Worldなど他紙ではNo.1になっている。
「Heartbreak Hotel」の発表から50年が経ち、日本ではパブリックドメインとなり、著作権保護期間は終了した。
エルヴィス・プレスリーについて-5
- 2006/09/28(木) 04:08:17
レコーディング・スタイル
レコーディング場所について1950年代はニューヨークにあるRCAスタジオを利用した事があったが、エルヴィスのキャリアにおいて、主演映画の挿入歌以外のレコーディング場所でもっとも利用されたのはテネシー州ナッシュヴィルにあるRCAスタジオBである。
しかし、1972年以降はハリウッドにあるRCAスタジオや地元メンフィスのスタジオを利用した。更に1976年になるとレコーディング自体に関心が薄れ、RCAスタッフがエルヴィスの自宅(グレイスランド、ジャングルルーム)に録音機材を持ち込み、レコーディングを行わなければならなかった。
後年レコーディング自体に関心を示さなくなったのはRCAのミキシングがエルヴィスの意向とそぐわなかったり、体調不良等様々な理由があると思われるが、はっきりとした理由はわからない。
しかし、エルヴィスのレコーディング・スタイルは(現在ではいくつかのテイクをつなぎ合わせて一つの曲として発表する形式もあるが、エルヴィスはこの形式を選択出来たにも関わらず彼はこの形式を嫌い、現在まで発表された曲数は700以上あるがそのような形式で発表した曲は少ない)最後まで一発撮りといわれる1テイク完成型にこだわった。その為、エルヴィスの死去後現在まで様々な未発表テイクが発掘された。その中には発表されたテイクと違った趣向もあり興味深い。
エルヴィス・プレスリーについて-6
- 2006/09/28(木) 09:44:44
Follow That Dreamレーベル
エルヴィスがそのキャリアにおいて発表した曲の未発表テイクが数多く存在する。未発表テイクを収録したアルバムが何枚も公式にリリースされたが、今後、商業的目的もある公式アルバムですべてを聴くには不可能。また、録音された公演も数多く存在しており、すべての未発表テイクを含めて、それらは公式にリリースしても一部のファン達にしか需要がない為、長年、海賊版でしか聴く事しか出来なかった。プライヴェート録音を含め、すべての残されたエルヴィスの音源を聴きたいというファンの要望に応えるべく立ち上げられたものが、主演映画のタイトルから引用した「Follow That Dream」レーベルである。
このレーベルのアルバムは限定生産され、世界中のファン・クラブに優先的に流通させるので一般のCDショップ等に出回りにくい。1999年に第一弾「Barbank'68」(1968年のNBC-TVスペシャルのリハーサルの模様を収録)がリリースされた。以後、定期的に貴重な音源が次々とリリースされ続けている。
わずかだが一つの曲のすべてのテイクを聴く事が出来たり、コンサートアルバムはエルヴィスのコンサートを体験する事が出来なかったファンにも(音声だけだが)追体験出来るような内容になっている。
エルヴィス・プレスリーについて-7
- 2006/09/28(木) 13:18:24
軍 歴
1958年1月20日に、彼はアメリカ陸軍への徴兵通知を受けた。当時のアメリカ合衆国は徴兵制を施行しており、陸軍の徴兵期間は2年間である。
彼は特例措置を受けることなく、通常の兵士として西ドイツで勤務し、1960年3月5日に満期除隊した。この愛国的な貢献は当時の多くの米国人にとって賞賛された。
家族をはじめとする多くのものが、平時におけるこの徴兵をいぶかしみ、中には「彼の徴兵は、その思想や行動を危険視されたことによる政治的なもの」と考えたものもいた。なお、彼は軍在籍中に、空手の黒帯を取得し、軍曹まで昇進した。徴兵命令が来た際、エルヴィスは「闇に響く声」を製作中で、徴兵を少し延期したことでも話題になった。
徴兵局はパラマウントからの延期の申し入れに対し、「エルヴィスを遣して頭を下げさせろ」と伝えた。翌日、エルヴィスは徴兵局へ出向き、延期の申し入れを行った。
また、軍に在籍中に、病気にかかり軍の病院において扁桃腺炎だと診断された。その際、医師は彼の声が変調するのを恐れて、扁桃腺の切除手術は行わなかった。扁桃腺の切除手術は行われなかったものの、彼は回復し健康を取り戻した。
1967年5月1日には、ラスベガスのアラジン・ホテルでプリシラ・アン・ビューリーと結婚。プリシラはエルヴィスのドイツでの所属部隊長の継子であった。エルヴィスは母親と継父を説得して、未成年であったプリシラとグレースランドで同棲していた。1968年2月1日には娘リサ・マリー・プレスリー(Lisa Marie Presley)が生まれる。








